My History

My Boom 1963 1976 1979 1982 1987 1990 1991 1996 1997 1998 1999 2002 2003 2004 2005 2008 2009 2012 2013 2014 2015
誕生 13歳 16歳 19歳 24歳 27歳 28歳 33歳 34歳 35歳 36歳 39歳 40歳 41歳 42歳 45歳 46歳 49歳 50歳 51歳 52歳
中学校 高校 大学 社会人 勤続
3年
勤続
4年
勤続
9年
勤続
10年
勤続
11年
勤続
12年
勤続
15年
勤続
16年
勤続
17年
勤続
18年
勤続
21年
勤続
22年
勤続
25年
勤続
26年
勤続
27年
勤続
28年
結婚 長男
誕生
次男
誕生
前厄 本厄
(長男
補助輪
取れる)
後厄
(次男
補助輪
取れる)
(長男
新車
購入)
(長男
中学
進学)
右鎖骨
骨折
(次男
中学
進学)
退職
サッカー
バンド
ロードバイク
オフロードバイク
スキー
スノーボード
自転車
キャンプ
ソフトボール

サッカー

1978年 4月(中学3年生)サッカー部に所属、ポジションはセンターフォアード。
1980年 4月(高校2年生)サッカー部主将、同年シーズン戦にてチーム好成績を残し、地方大会3部リーグから1部リーグへ飛び昇格。オフロードバイクのエンデューロレースもしんどかったけど、一生涯でこれから先、こんなに体を動かすことはもうないかもしれない。
1981年 4月(高校3年生)岡山県選抜補欠、受験を理由に辞退。

バンド(音楽)

1969年 (幼稚園)ヤマハ音楽スクール、エレクトーン専行、何年続いたかは記憶にない。幼稚園芸会で大太鼓をたたいた記憶あり。
1974年 (小学校5年生)ブラスバンド部入部、トランペット専行。自宅練習用にYAMAHAのそれを購入。
1976年 1976年(中学1年生)Grecoのエレキギター、ストラトキャスターST−50を購入、ディープパープル、レッドツェッペリン等、ハードロックをコピー。
1978年 (中学3年生)初のバンド活動、パートはリードギター、サイドボーカル。主に世良正則&ツイストをコピー。その他SAS。
1980年 (高校2年生)FERNNUNDESのセミアコ−スティックギター購入、主に誰がカバやねんロックンロールショーをコピー。高校卒業と同時にバンド活動休止。
1986年 (大学5?回生)文化祭野外コンサート参加。この為の即席バンド結成。YAMAHA SG−1500を入手。カシオペア、シャカタクなどフュージョン寄り。
1996年 5月31日(勤続10年目32歳)WOWOW生中継でプリンセスプリンセスの解散コンサートを見て、奥居香(以下、敬称略)にはまる。
1996年 11月(勤続10年目33歳)新居を購入。家財道具をまとめ買いした際、どさくさにまぎれて本場USA Fenderの’57 STRATOCASTERを購入。動機は、バンド活動再開でも、プリンセスプリンセスの影響でもなく、単純に中学時代からのあこがれであった本物のストラトキャスターが欲しかったから。13歳で手にした初めてのエレキギターがそのコピーモデルだったのだ。あこがれのギターはもう1本あり、これがバンド活動再開への拍車をかけることに。
1997年 (勤続11年目34歳)奥居香ファーストアルバム『SHOUT!』にあきたらず、プリンセスプリンセスのCDおよびLIVE VIDEO全てをコレクション。尚、奥居香の関西地方のコンサートには数回足を運んだ。バンド自体がかっこよく、目線は自然とリードギターの方にも向いていた。
1998年 12月(勤続12年目35歳)とうとういたたまれなくなり、奥居香のコピーができるバンドへ参加したく、インターネット公募を通じて、地元社会人バンドへ参加。当初3名(ギター、ベース、ドラムス)でスタート。
1999年 12月(勤続13年目36歳)自分へのボーナスとして、あこがれ第2弾、USA GibsonのLes Paul STANDARDを購入。99年5月1日に1子目が誕生し、妻子とも里帰りしているさなか、勢いで買ってしまったのも否めない。ただし、自分の中ではちゃんとした理由があった。ひとつは、子供の生まれた年のモデルを末長く愛用し、時がきたら、なおかつその時に子供が興味を示したならば譲ろうと考えたこと。もうひとつは、奥居香バンドのリードギタリスト友森昭一氏がやたらかっこよく、その時の愛用ギターがこれであったことも理由のひとつである。
2001年 地元神戸のライブハウスで数回のライブを行った後、バンドは解散。

ロードバイク

1982年 自動二輪中型免許取得後、カワサキのGPz400を購入。モーターバイクも語れば長くなるが、最初に興味を覚えたのは、小学校低学年の時だったと思うのだけれど、『仮面ライダー』を見たのがきっかけ。小学生にして、雑誌『モーターサイクリスト』などを読みあさっていた。当時の気持ちになって言えば「大きくなったら絶対バイクにのってやるんだ!」って心に誓ったような記憶がある。大学入学と同時にそれに向けてのアルバイトを開始し、変な話であるが、『つなぎ』(皮のバイクウェアー)、グローブ、ブーツそれにヘルメットのほうが先にそろっていた。ウェアー関係はKUSHITANI、ヘルメットはGPA(FRANCE)と決めていたのだ。自転車関連グッズの選び方もよく似ているような気がする。
1983年 スズキのRGガンマ250に乗り換えた。カワサキのGPz400はそれなりによかったんだけど、4サイクルインライン4のエンジン特性が素直すぎておもしろくなかった。ちょうど、レーサーレプリカという言葉が流行りだしたころ。フレームにアルミニウムを使った、当時ではもっともスパルタンな2サイクル250ccのフルカウリング付きロードバイクだった。
1984年 バイクに乗り出すと同時に、アルバイトとロングツーリングの繰り返しであったが、一方、峠を走ることも醍醐味のひとつであった。六甲山に朝練と称して峠を『攻める』ことも日常茶飯事であった。2〜3年前ぐらいに『峠族』とか『ローリング族』とか言われていた危険行為(に近いライディング)をする連中とは、気の持ちようが違うだけで、あまりかわらない事をしていたような気がする。いつ死んでもおかしくないようなコーナーリングしてたからなぁ。この年ぐらいから鈴鹿の4時間耐久レースへの参戦を意識し、岡山県は中山サーキットをベースに練習走行や、素人レースに参加したり、また鈴鹿サーキットのライセンスを取得したりしながらその機をうかがっていた。
1986年 一旦停止無視の乗用車に側面から激突され、スズキのRGガンマ250は大破し、廃車となった。この時のガンマはいろいろパーツを交換していたので、購入時の原型はとどめていなかった。ここまでの文章から、自分はかなりリッチな大学生と思えるかもしれないが、そうではありません。あまりというかめったに講義には出ずに、アルバイトに勤しみ、稼いだお金のほとんどを趣味に投じていたので、余裕など全くなかった。幸い?相手方の対物保険でスズキのRGVガンマ250を入手。このころから、就職を控え無理なライディングやサーキット練習をすることは無くなって行った…っけ?
  

オフロードバイク

1990年 バイクライフの始まりと同時に、ずっと通い続けている単車屋さんが神戸市は垂水区にある。社長1人でやっている小さな店だ。15歳年上なので、通い始めた19歳のころ彼は34歳。今の自分より若くして一国一城の主であった。自分の人生、この人との出会いがなかったら、全く別の物になっていたと確信できる。修理を中心にバイクに関わるありとあらゆることを教えてもらった。全てが理解できて、自分でもそれができるとは限らないが、何というか『センス』みたいな物が身に付いた。素材別の工具の使い方など論理的であったし、部品交換も金を出せばよい物が手に入るではなく、自分で作って間に合わせてしまうし、その物自体もなかなかセンスがあり、愛着が沸いてきたものだ。話は脱線したが、この店に集っている何人かのロードバイク乗りの仲間がいて、その内の1人(タクチャン)がある日とんでもないことを言ってきた。「林さん、林道っておもしろいですよ」…。
1991年 タクチャンは、神戸市北区の『徳川道』という林道(その筋のオフローダー御用達の林道)をホンダのSUPERカブで走破したと言うのだ。彼も根っからのロードライダーで自分と同じくスズキのRGVガンマ250を駆ってたんだけど、このときの経験からオフロード人生にまっしぐら。とうとうタクチャンはホンダXLR250Rを購入し、本格的に山へ繰り出すようになってしまった。幾度となく林道ツーリングへ誘われたが、その時の自分はまだロードバイクに未練があった、というか、この世で乗りたいと思うバイクはロード系、しかもドゥカッティに代表されるコンチハンドル、シングルシート、バックステップの背を丸めて乗るイタリアっぽいバイク以外にはないと思っていたからだ。オフロードでもアメリカンでもなかったのだ。おこられるかもしれないが、オフロードバイクは絶対乗りたくないバイクの1つだったのだ。
話はまたもや脱線したが、仲間がタクチャンに触発されどんどんオフロード(オフローダー)に転向していく中、自分も「ひょっとして、これって、おもしろいかも」…と思い出した。ここから、ある意味マンネリ化していたバイクライフが急転。タクチャン同様オフロード人生まっしぐらとなった。
同年、カワサキのKMX200を入手(なんでだろう始まりはいつもカワサキ…)。ウェアは当然KUSHITANI。すでに社会人になっていたが、週末は毎週のように山へ。林道もそうだが、近くに何カ所かモトクロスっぽい練習ができる広場があったので、そちらの方へも腕をみがきに行ったものだ。KMX200はリヤサスがオイル抜けし、ガソリンタンクも膝で押さえピッカピカ(わかる人はいると思うが)となるまで乗り倒したが、上達と同時にパワー不足を感じ始めた。ちょうど仲間内でエンデューロレースに出場しようか、という頃だった。
1991年 1991年ホンダCRM250R購入。初期型CRM。正直気に入った。当時ホンダ以外の国産メーカーは2サイクルでは200ccを主流としていたが、ここに40馬力のエンジンを積んだCRM250Rが登場した。当時ライバル車としては、YAMAHA DT200、KAWASAKI KDX200、SUZUKI TS200Rなど。正立サスではあったが足回りがしっかりしていて、トルクも太かった。
1992年 1992年二代目CRM250R購入。フロントサスペンションが倒立となったもの。リヤショックもリザーバータンク一体型となり、足回りが大幅に向上した。CRM、ますます気に入った。1台目のCRM250Rは89年式のもので、これも良かったんだけど、新型に比べてしまうと、先に延べた特性や全体的なバランスにおいて、ちよっとずつ劣っていたような記憶がある。
1994年 3台のCRM250Rを乗り継いでいるが、94年式以降〜排気ガス規制への対応としてディチューンされたCRM250ARまでの三代目CRMが、公道を走れる国産車としてはクラスで一番かと思う。何が一番かと聞かれても難しいが、ひとことふたことで言えば、トルクの太さと足回り(サスペンション)の良さ。専門誌で紹介されていたとおり全体のバランスが良く、数々の素人レース(エンデューロレース等)で上位に実績を残しているのはその証明。エンジン特性としてはピーキーさは無くどちらかというとマイルド。下から(低速低回転から)ついてくるのでエンストしにくいし、ぶん回した時でもいきなりドッカーンってのはない。味付けは素直すぎるとおもしろくないという人もいるだろうけど、それでなくても手強いコースや路面状況に対しては、余計な味付けは不要である。素直が一番。ミスが少なくなるのが結果として速い、というのが持論である。今でもこの94年式CRM250Rに乗っている。2000年ぐらい(自分の住んでいる周りでは95年の関西淡路大震災の後ぐらいからかなぁ)からオフロード車自体が下火になり、モトパンに派手なモトクロスジャージ、ノビータイヤ(レース用ブロックタイヤ)を履いた、街行く元気なオフローダーも見かけることが少なくなり、2003年にはオンオフ問わず、2サイクルのスポーツバイクが製造中止となり各社のラインアップから姿を消した。この件については、言いたいことが山ほどあるが、別の機会に触れることにする。

オンロードバイクとオフロードバイクについて(脱線)

オンロードバイク オフロードバイクと、ロードバイクへの『携わり方の違い』を挙げてみよう。いずれも自分が経験してきたレベルにおいて実感したことであり、プロレベルの話ではない。ロードバイクではサーキット走行や模擬レース、オフロードバイクでは素人レースに参加し、ある程度の成績を残せるようになるまでの間、モーターバイクを通じていろいろやってきた中で振り返り思ったことだ。

ロードバイクは外観のチューンに凝ったものだ。ロードレーサー(レプリカ)がブームだった時代には、(フル)カウリングにシングルシート、クリップオンハンドルにバックステップというお決まりの改造。その他、チャンバーやステンレスメッシュのブレーキホースへの交換、ステアリングダンパーの装着。御法度なのは、スリックタイヤ装着、メーター周りはタコメーターと水温計のみ、おまけにガスの混合仕様、キックアームレスにしてしまうなど。自分で改造したモーターバイクを駆って、ワインディングロードをハングオンで攻める(死語?)ことが醍醐味だったのだ。少しでも速くコーナーを駆け抜けたかったのだろう。今思うと、これらの改造が何の役に立っていたのかわからない。確かに、前傾姿勢でハングオンきめて、コーナーリングすると(文章にすると恥かしいね)多少は速かったのかもしれないけれど、それなりにコケていたしなぁ。多分ノーマルの状態でも同じように楽しめていたのかもしれない。実際、オフロードバイクにとりつかれる直前は、その完成度の高さから、ほとんど何もいじっていないSUZUKIのRGVГ250SPに乗っていた。あいかわらずタコメーターのみだったけど。
何よりもツナギを着て走ることにワクワクしたものだ。何というか『正装』なのね、ツナギっていうのは。それを語るには、ほど遠いライディングをしていたので、安全面をあれこれ言う資格はないが、とにかく自画自賛、かっこいいと思っていた。こんなバイクで沖縄を除く全都道府県、主な半島、岬をツーリングしてきた。これはロードバイクだからできたとか言う話ではない。学生のころで時間があったからだ。ただ、前傾姿勢きつく腰への負担が大きいなりにも、一度(一気)に走れる距離としては、ロードバイクの方に軍配があがるのかな。ところで、何でかしらモーターバイクについては『パーツインストール』とは言わずに『改造』となってしまう。
オフロード
バイク
オフロードバイクは、未舗装のグリップしにくい路面、荒れた地を走ること自体が楽しい。山谷へ持ち込んでの練習や単に走るだけでもおもしろい。この場合、転倒を前提に怪我をしない範囲でいろいろ試してみることができる。転倒に対する心構えがロードバイクとの決定的違いかと思う。そうしていると、いろいろなシチュエーション、またバイクの挙動に対する本来のライディングテクニックが身に付く。こういった接し方をしていると、サスペンション(セッティング)の善し悪し、タイヤ選択や空気圧とグリップの関係、トルクの意味がわかってくる、語れるようになる。ニーグリップについてもそうだ。ロードバイクでも良く使われる言葉だが、いまいちわかりにくいと思う。オフロード走行すればその重要性がすぐにわかるはず。
一方、転倒が多い割にバイク自体壊れるところが少ない。メンテナンスについては、はとんどが自分でできるし、自分でしようと思う。エンジンの分解/組み立て、フロントサスの分解/洗浄/組み立て、リムの交換、チェーン、スプロケットの交換など、手入れするとなると全ばらしがおっくうでなくなる。普通となる。自然と工具の使い方そのものや、さわる場所、素材による力の加え方を覚える。
最後に、人里離れ山(林道)に向うと、いろんな自然と接することができる。ストレス発散になるとかそんなことではなく、気分が良い、おおらかな気持ちになる。などなど、モーターバイクの何たるかというのは、オフロードバイクを通じて培ってきたように思える。また、ありがたいことに、それにより肉体がかなり鍛えられたと思う。

スキー

1986年 (大学5?回生)悪い先輩の薦めで、スキーを始めた。いろいろ凝ってはみたものの、あまり上達はしなかった。センスが無かったのかなぁ…。最初始めたころは、外足荷重や膝の入れ方が、オフロードバイクのコーナーリングによく似ていて、おもしろいと思えたんだけどね。競技指向でレースなど試しに出てみれば、また、違ったふうに見えたのかもしれないが、ひととおり滑れるようになったとたん、スキーそのものよりも、『飲み』の方に走ってしまうようになった。ホームゲレンデは、もっぱら長野県は戸隠スキー場。というか、ここしか行かなかったし、今後も多分ここだけしか行かないだろう。余談であるが、『釣り』と『スキー』については、自分の中では同じような位置付けに思える。なんでだろう?
1990年 (勤続4年目27歳)会社先輩の紹介で、長野県戸隠村のペンション『COROVOX』(コロボックス)に宿泊した。これが、またすばらしい出会いのひとつとなった。このペンションのオーナーは、兵庫県は淡路島出身。脱サラ後、関西大学の校門近くで喫茶店を営んでおられたが、あることをきっかけに家族で長野県に移り住み、ペンション経営を始めたと聞いている。最初に訪れた際、長野県のおしゃれなペンションまで来て、『こてこて』の関西弁を聞いたときはびっくりしたが、同じ関西出身者というよりも、この家族の『あったかさ』に触れ、もっと言えば感動すら覚えたんだけど、末永くお付き合いできたらいいなぁ、と思ったことを覚えている。

スノーボード

1996年 (勤続10年目33歳)スノーボードを始める。やっぱり戸隠スキー場なのだが、午前中スキーで2〜3本滑った後、もれず区営食堂(何でか、ここが居心地がよい)で『飲み』に走っていて、かなり気分よ〜くなっていたのに、一緒に行っていた会社後輩のかわゆい女性2人に「林さんもスノーボードスクールに入りましょう!」と言って引きずられて行ったのがきっかけ。こっちは酔っ払いやっちゅうねん!今程ではないが、当時はスノーボードがブレイクしたての頃で、戸隠スキー場にも結構な数のボーダーが見受けられた。スキーを履いていた自分から見れば、当時の彼らは『じゃま』の一言(失礼)。マナーというより、ちゃんと滑れない人が多すぎて、不愉快に思えることもしばしあった。接触は当然、激突もあった(自分にも緊急回避できるようなテクニックが無かったので)。なので「スノーボードなんか絶対にせえへん(しない)」と思っていた。ところが、酔いのせいか、シャレも含めて、スノーボードスクールで講習を受け、わりとすんなり滑れて「結構おもしろいやん」と思えたのが始まりだった。
1998年 (勤続11年目34歳)冬季長野オリンピック。そんなこんなで、ペンション『COROVOX』(コロボックス)には、毎年のごとく通っていたのだが、自分よりも家内の方がペンションのファミリーと仲良くなり、今シーズンはとうとう『住み込みバイト』をすることに。一般のお客さんが多いのはもちろんのことながら、オリンピック関係者がこの宿を利用するということで、かなり忙しいシーズンであったようである。ロシアの報道陣も寝泊まりしていたが、何でも本国との時差の関係上、各種競技の当日結果を夜中までに本国あて送らないといけないらしく、ただ、器材が現場にしかないのでそこで記事をまとめ、本国に送った後、ようやく宿に帰ってくるので夜中となってしまう毎日。なんで、彼らの夜食の準備などしていたら平気で午前1時や2時になってしまったそうだ。そこへ毎週通う夫。前年年末から当年4月の第1週目まで、土曜出勤のあった2週を除き、12週連続で長野へ通った(基本的に金曜日の残業後出発〜日曜日の22時帰宅)。片道530kmを平均6時間かけての自走。1996年に新車で購入した三菱チャレンジャーは、当シーズンで12週×530km/片道×2=12,720kmを走破した。会社の先輩や同僚数名で行くこともあったので、何回かは運転を交代する場面もあったが、ほとんど自分が運転した。当然1人で往復することもあった。印象に残っているのは、会社が引けてからの出発なので、めんどくさいからペンション到着までスーツ姿のままで運転したり、あるいはノンストップで走らせたり、しんどいなりに楽しんでいたと思う。

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